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Healing Essayヒーリング・アーツとともに

本質を鋭く観[み]抜く目を養う、「メドゥーサ修法」

 日本人の桜好きは、今や諸外国でもあまねく知られるところとなっているらしい。
 そして、絢爛[けんらん]と咲き誇る桜の花に強い感銘を受ける人は、日本人だけに限ったことではないようだ。
「チェリー・ブロッサムを見に、日本へ行きたい」と真顔で語る人と、外国で何度も出合ったことがある。
 一体、桜の花の何が、私たち日本人の心をかくもとらえるのか。武士であり僧侶であり歌人でもあった西行(さいぎょう:1118~1190)は、桜の花をこよなく愛したといい、彼の作歌の1つ、『願わくは 花の下[もと]にて春死なむ そのきさらぎの 望月[もちづき]の頃』でいう「花」とは、いうまでもなく桜の花を指す。ちなみに、西行がこの作品を詠んだのは、死の10年以上前のことだが、願いがまさにかなう形で、如月[きさらぎ]16日(望月は15日)に、静かに肉体を離れたことが、当時相当な話題となったらしい。 

 厳しい冬の間、葉をすべて落とし丸裸でじっと寒風に耐えていたものが、喜ばしい季節の到来を告げるかのごとく、生命[いのち]の歓喜を全身全霊で一気に吹き出す。
 春の到来に伴ってしばしば日本列島を吹き荒れる強風に、激しく揺さぶられ、波打ち、振るえ、渦巻きながら、桜の花々は歓喜と感謝の舞を乱舞し続ける。

 二元性を統合止揚する超越的な意識モードにて、形や動きの内面にある実存のエッセンスを写し撮ろうとする試みを、私たちは「帰神撮影」と呼んでいる。「帰神」とは古神道の用語で、元来は神々の意を伺い、託宣を得るための交神術を意味した。
 本作を帰神撮影した舞台は、近所の公園。龍宮館(自宅兼アトリエ兼合宿所兼サロン)から、車で数分もかからない。
 前日から強い風が吹き、冷たい雨もたっぷり降り、もう散り始めているかと思ったが、どうやら今年の桜はかなり「しぶとい」らしい。
 突発的に起こる強風をむしろ楽しむかのように、梢[こずえ]まるごとでザワザワ揺さぶられ、しなりながら・・・・生命の歓喜にうち振るえている、踊っている、流れ渦巻いている。
 桜の花の海にどっぷりつかりながら、禊[みそぎ]祓[はら]われる爽快。
 私が提唱してきたヒーリング・アーツでは、表面的な個々の事象(部分)に注意を向ける一般的な視覚のあり方を「見る」と表記し、部分にとらわれない総括的でトータルな「みえ方」を「観る」と別に記して、両者の違いを強調している。
 視覚を、「見る」ことから「観る」ことへとシフトさせる具体的方法については、旧ヒーリング・ネットワークのウェブサイト内に詳述してあるから、関心のある方はそちらを参照されたい。
 私は、人類が潜在的に有する視覚の可能性について語っている。近い将来、誰もがごく当たり前のように備えるであろう、新たな「み方」「みえ方」。
 百年前、ゴッホを理解できる者は、画家仲間ですら1人もいなかった。生前のゴッホに比べれば、 私たちを取り巻く状況は、「ずっとマシ」といえるかもしれない。ちょっとした訓練で(おそらくは〕誰でも新しい視覚体験を獲得することができ、それによってありふれた日常の光景に、深遠さ(深み)、清冽(クリアー)さ、美、が多層的に備わるようになる。
 それは、人生を計り知れず豊かにする。
 そのような意味において、私は「芸術」という言葉を使っている。

 私が言う芸術とは、特別な才能ある者だけが関わることができる特殊な技能とか、それによって生み出された作品、あるいは有閑階級の趣味・嗜好などを・・・まったく「意味しない」。
 まあ、堅苦しいことは抜きにして、子供みたいに素直な心で、無邪気に目をぱっと観開[みひら]き、作品と向かい合っていただきたい。
 視覚をダイレクトに変容させる何らかの手段とアクセス可能な(いわば)特権階級的な立場にある方は、是非それを活用しつつ、諸々の帰神フォト作品と向かい合われるがよい。その真の凄さ(というよりは凄まじさ)、意味を直ちに理会(全身全霊でわかること)あるいは直感することが、できるはずだ。
「命をかけて撮っている」と私が言うのは、決して比喩とか誇張では、ない。
 私の生き方、生き様そのものが、写真として表現され、写し出される。百万言を費やすよりも遥かに饒舌に、雄弁に、私という人間の「在りよう」、私とはいかなる人間であるかを、1つ1つの作品が物語っている。
 芸術の本質とは、自らの魂を、ただあるがままに、さらけ出すことだ。

 本作を貫いて流れる音楽は、この作品のために妻の美佳が創作したオリジナル楽曲だ。
 視覚と聴覚のクロスオーバーによる、新たな芸術体験を、心ゆくまでお楽しみいただきたい。 

 あちこちで凝集したり、放射状に広がったり、波打ったり、流れたり、振るえたり、渦巻いたり、・・・しているのは一体どういうわけか、どんな仕掛けか、などといかめしく詰問したもうな。
 別に種も仕掛けもありはしない。
 私はヒーリング・アーツの応用である龍宮道の原理を使って、人体の螺旋原理に基づき、舞いながら帰神撮影している。
 そうした私の動きが、自然界の構成原理である螺旋構造と響き合い、写真画像に反映されてくる。ただ、それだけのことだ。
「それだけ」のことではあるが、写真表現の手法としては、これまでになかった、まったく新しいものといえるかもしれない。私は「手法」など、まったく意識することなく、ただ身体が自然に舞い動くに任せて撮っているだけなのだが。

 晴れているのに時おり小雨がぱらつく、そんな奇妙な天気の中で、夢中になって帰神撮影に没頭したから、レンズに水滴がついていることにも、まったく気づかなかった。そんな細かいところに、私はまったく頓着しない。構図とか、ピントとか、全然気にかけない。
 私はただ、作品を通じて「生命[いのち]の意思」を、人々に伝えようとしている。
 私は、地球生命のメッセンジャーだ。

 我らは、歓喜と感謝に満たされる!!!

<2014.05.11 蚯蚓出[みみずいずる]>

『インターネット裁判 第7章 桜浄土』より

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 今年も桜の季節がやってきました。

『インターネット裁判』サイトで、夫の裁判中に発表したスライドショー作品『桜浄土』をテキストとして、ヒーリング・アーツ・トレーナーたちが実践した<メドゥーサ修法>(『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』収録)のリポートをご紹介します。

 メドゥーサ修法は、目の余分な力を抜くことで、ものごとの本質をトータルに「観[み]る(=観[かん]の目)」ためのメソッドです。ヒーリング・フォトグラフの撮影者も、鑑賞者も、通常の見方(見[けん]の目)でなく、この「観の目」を使うことが基本となっています。

 ヒーリング・フォトグラフに限らず、あらゆる藝術作品を、「観の目」で観ることにより、その本質が観えるようになります。

 

報告1

 最初は蓮華掌をレット・オフした際、視線が粒子状に分解されると目が緩んでくるに伴い、身体が動いてしまいがちでした。一点を見つめた視点もぶれるように動いてしまいました。その点を注意しながら何度か、実践するうちに、身体の動きや視点のブレが少なくなる程、レット・オフに伴い身体の裡が充実される感覚がしっかりしてきました。
 試みに高木一行先生の揮毫された『帰神シグネチャー』をメドゥーサ修法で「観て」みますと、普段の見る、「見方」が解体されるにともない、全く新しい「観え方」が浮かび上がるように現れてきて、驚きと感動を覚えました。
 この体験から、私(たち)の見方は、経験などによりある特定の固定した見方がおそらく脳内で構築されてしまっており、レット・オフによりその縛りから解放されると、本来あったその他の見え方や捉え方が自然と起こってくるのではないかという洞察が浮かびました。
 メドゥーサ修法を行ないつつ、スライドショー『桜浄土』を観照させていただきました。春の気配が濃厚となってきたこの季節にぴったりのスライドショーを観照していると、画面から眼を通して伝わる舞い動き震える桜の幹や花々と感応して、身体が震え、動き出しました。また時には静寂のうちにどこまでも透明な桜の花々と澄み渡った空が現れ、眼を通じて内面に染み渡るように心身をクリアにしていただいているように感じました。
 クロスオーバーされた帰神ミュージックの効果もあり、終盤ではどこか真空の空間にいるかのような不思議な感覚に襲われました。これが近所の公園で撮られた作品とはとても思えないクオリティです。
(東前公幸 ヒーリング・ネットワーク関西)

 

報告2

 何か(最初は身の周りの静止物からはじめましたが)を見つめつつ蓮華掌でレット・オフを行なうと、「見る」ということがほどけていき、「観る」という状態へと導かれていきました。
 レット・オフが始まると、見ている光景が小さく揺れ、それのまま静かに続けていると粒子状の細かいドットの集合体が揺らめき続けているのが観えてきます。
 静止した物体は「止まっている」という固定観念があるので変化がないものとして見ているのですが、オフが起きると連続したあらゆる瞬間に目の前の光景が光の反射としてこちらの網膜に映ってきて、一瞬一瞬全て新しい光景として「観る」状態へと移行していました。
 呼吸すら外側にあらわさないように外形を変えないまま続けていると、身体の内部で感じている粒子の感覚がどんどん微細になりながらも活性化し、透明で無音の振動がどこまでも深く細かく鳴っているような不思議な充実感がどんどん進行していくのが感じられるようになっていきました。
 スライドショー『桜浄土』を観照すると、最初は一枚の作品から次の一枚への変化に視点がつられますが、オフを続けていると一枚と次の一枚の間の両方が重なっていき次第に入れ替わっていくその過程の両方が意識できるようになり、視覚と意識の立体的・空間的感覚が強まっていくのが感じられるようになっていきます。

 このレベルで感じられる「観る」という状態をたもったまま、ゆっくり自分の前腕と触れ合ってヒーリング・タッチを行なってみると(本当にゆっくり‥‥柔らかく‥‥動いて触れ合っていかないと「観る」状態が切れてしまうので、全身全霊で注意深く動く必要がありました)、皮膚という存在に初めてじっくりと触れ合っているという非常に深い感覚と感動があり、とてもリフレッシュします。
(道上健太郎 ヒーリング・ネットワーク山口/毘沙門会)

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 先日(2018年3月25日)の<極樂の会(@広島)>では、スペシャル・イベントとして、参加者の方々と一緒にパイプオルガンとオーボエのコンサートに行ってきました。
 その後、道場の天行院でヒーリング・アーツを実践して心身のリフレッシュ。
 さらなるスペシャル企画は、この日のために新しく創作した<オンとオフの音楽>を発表しました。
 以前ご紹介した<オンとオフの音楽>では、オフの音楽が2倍、遅くなるという実験をしましたが、今回は3倍遅くなるオフの音楽を聴いていただきました。
 2倍の時には、今ひとつ感覚が掴めなかった方も、2倍、3倍と聴いて、比較することにより、遅くなることで身体内部にどんな感覚が生じるのかを体感していただけたようです。
 3倍遅くなったオフの音楽については、次回以降の『ヒーリング・アーツとともに』で発表予定です。

(写真右上のお料理は、ササミと生ハムのクリーム煮、レタス添え。会の終了後、お出ししたものです。)

 オンとオフの音楽について記した記事を夫に送ったところ、夫からの手紙で、「今回のヒーリング・アーツとともには面白かった。ようやく、オリジナリティーが出てきたようだ。ヒーリング・アーツの実践を促進する音楽の可能性については以前より示唆していたが、これを機に、さらなる探求を続けるといい」との返事が来ました。

 かつて夫と海への巡礼へ訪れた経験を活かし、音楽で、リズムパターン、楽器の種類、和音やメロディーの組み合わせなどにより、色々な種類の「波」が表現できるので、それをレット・オフの練修に活かすことで、さらなる多層的な波の感覚を身体内に起こすことができるはずです。

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 4月の極樂の会は、「容[ゆるし]」をテーマに開催します。

 容とは、精神的には他者や自分、あるいは状況を「赦[ゆる]し、受け入れる」ことですが、身体的にある状態になることで、自然に「許す」という気持ちがわき起こって来ることを意味します。
「容」が起こる時にも、「オフ」感覚が必ずともない、例えば他者に対する怒りを感じている「自分(我)」がオフになった時、「容」の状態が体現されます。

 いつまでたっても他者(あるいは自分、または社会等の対象物)を許せない状態とは、自我がオンのまま、凝り固まっている状態です。根本である「我(エゴ)」の感覚を溶かすことで、どんな状況でも「容」を体現できるのです。これは夫が刑務所で実践しているヒーリング・メソッドでもあります。

 

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Photograph by Mika Takaki @Kannnondai, Hiroshima

 

『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』は、<Megami Marche[女神マルシェ]>のウェブサイトでご購入いただけます。