Healing Essayヒーリング・アーツとともに
「ヒーリング・ネットワークは宗教じゃないのか?」との問いに対して
最近、「ヒーリング・ネットワークは宗教じゃないのか?」といった問い合わせがあったり、カトリック信者の方より、「キリスト教の教理を理解した上でバッハを演奏するのが本来のあり方では?」とのご意見があったりと、「宗教」にまつわる話題が私の周りで飛び交っています。
そこで今回の『ヒーリング・アーツとともに』では、この場を借りて、私たちはNPO(特定非営利)法人であって、宗教法人として活動しているわけではないことをはっきり述べたいと思います。
「ヒーリング」という言葉自体、「怪しげ」と感じたり、占いや開運のような、観念的なものだとの誤解もあるようですが、私たちが紹介しているメソッドはすべて、身体という物理的な土台を基盤としています。
ヒーリング・アーツには、非常にたくさんのヒーリング・メソッドが存在し、あらゆる方面でそれを活かすことができ、例えば写真(ヒーリング・フォトグラフ)、武術(ヒーリング・マーシャルアーツ)、音楽(ヒーリング・サウンド)、書(ヒーリング・カリグラフィー)など、一見、健康法とは関係なさそうなものまで多岐に含まれているため、一体ここは、何をするところなのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
そもそも私たちがなぜ夫(高木一行)の元で長年学んでいるのか、そのきっかけは何なのか、というところから少しずつお話ししないと、ヒーリング・ネットワークとは何なのかを理解していただくのは難しいのだと、最近思い始めました。
私自身は学生時代に、「広島にすごい先生がいる」と大学の同級生から夫のことを聴いていました。夫の著作『鉄人を創る肥田式強健術』(学研)を勧められるままに読んで、人間にはこのような凄まじい可能性が秘められているのかと、憧れの気持ちを高めていったものです。
天真[てんしん]療法や強圧微動術などを創始し、難病・重病患者を数多く救ったヒーラーとしての実績を持つ、肥田式強健術創始者・肥田春充は、正しい姿勢を極める鍛錬を続けたことで身体の物理的中心と、精神の中心とが合致する「聖中心(正中心)」の姿勢を顕現させ、まさに超人的な能力を拓[ひら]いた人でした。
夫の著作(『鉄人を創る肥田式強健術』)からは、その可能性が誰にでもひらかれているものであるとの印象を受けました。
何よりも夫自身が、肥田春充と良く似た姿勢、体型を体現しており、中心力を使ったいろいろな術を、目の前で示してくれたため、それが口先だけのペテンなどではなく、本当に実体験に基づいたものとして聖中心の可能性を分かち合おうとしていることが、直感的に感じられたのです。
「私にも、できるかもしれない」。そんな風に、勇気と希望に満ちた気持ちで、夫の元で学び続けることができたのです。
私たちが究極的に目指しているのは、「姿勢を極[きわ]める」ことに尽きます。ここでいう姿勢とは、身体のバランスが美しく調和した姿勢のことであり、その人の生き様までを含む「生きる姿勢」も意味しています。
夫は、肥田春充が指し示した人間の究極の可能性の一つである「聖中心」を独自に研究し、「ごく少数の、才能ある人だけが聖中心姿勢へと到達するのではなく、誰もが聖中心の姿勢・境地を体現できるような道を開き、人々と分かち合う」ことを、20代の頃、一番最初に聖中心の境地を体験してより、自らに課し、四半世紀に渡る人生を捧げてきました。
その一つの成果として花開いたのが、<ヒーリング・アーツ>の体系であり、<ヒーリング・タッチ>です。
つまりは、心と体を合致させる術としての<ヒーリング・タッチ>なのであり、それは最終的に、聖中心の姿勢を(自己、あるいは他者に)顕現させるための鍵になるものであり、だからこそ、「一体、何のためにヒーリング・タッチをやるのか?」と訝[いぶか]しげな目でみられながらも、粛々と、修養を続けてきたのです。
「聖中心の秘密を知りたいから、教えて欲しい」、「情報だけが欲しい」、「ワザ(技)だけが欲しい」、「肥田式以外は興味がない」、「ヒーリング・アーツには興味がないが、肥田式にだけ興味がある」という人たちがこれまでかなりの数、夫の元に問い合わせてこられましたが、そういう人たちは残念ながら、聖中心のことは結局わからずじまいなのです。
中国武術の世界では、師から教えをこうには、長年月、ただじっと稽古風景を見学しているだけのような「厳しい修行時代」を経て、師から完全な信頼を得るまでは、基礎ですら教えてもらえなかったといいます。
「師から教えをこう」のであれば、そのくらいの覚悟と気概、情熱、師への全面的な信頼、尊敬がなければ、何も身につかないのではないでしょうか?
これはヒーリング・アーツや肥田式に限らず、ありとあらゆる道における共通のことわりだと思います。
ヒーリング・アーツでは、「レット・オフ」という独自の原理、術、概念を重要視していますが、これは夫自身が姿勢を極[き]める際、能動的に「姿勢を作ろう」とするのでは絶対に顕現しない、聖中心姿勢へと至るために必要なものとして機能するからでもあります。
レット・オフの深みは、「姿勢を創る」ことだけにとどまりませんが、ヒーリング・アーツにおける「オフ」の原理を全身丸ごとで理会(頭での理解ではなく、体全体でトータルに理会する)するのでなければ、聖中心を顕現させることは(現時点では)非常に難しいといえるでしょう。
・・・・・・・・・・
夫の元で長年学んできた私たち(NPO法人ヒーリング・ネットワーク創設メンバー)は、夫の指導の元で、聖中心の姿勢や境地のごく一端を、これまで幾度も体験してきましたが、私たち自身が聖中心の姿勢を自在に体現することは、及ばずながらまだまだできていません。
ですが、「レット・オフ」については、長期間研鑽を積み、一定レベルの術を習得しているため、レット・オフの原理を一般の方々に伝えることはできます。そうした活動を、各地の稽古会等で粛々と続けています。
・・・・・・・・・・
私がYouTubeにアップしているバッハのオルガン曲演奏動画の最初に、かしわ手を打っているのですが、それに対して「かしわ手を打つなんておかしい」といったコメントがありました。確かに、キリスト教ではかしわ手は打たないかもしれませんが、日本人は神社でかしわ手を打つのは日常的なことであり、手を活性化することと、楽器および楽曲に対する敬意を払う意味で、私はかしわ手を打っています。人と違うことをすると、とかく奇異な目でみたり、怪しい宗教じゃないかと勘ぐる人もいますが、大切にしているもの、こと、人(生命)への敬意の表し方は人それぞれであり、大事なのは外形よりも内実だと思います。
写真:「うちの蛇君。(コーンスネークのブラッド・ムーン)」 iPhoneにて撮影。